保育園落ちることすらできない私死ね!

午後3時の公園に出没しているのは老人または子連れのお母さん、そこで多分浮いている、生産年齢真っ只中であり生殖年齢末期である私。
仕事はバイトで子供はいない。
満開の桜の下、小さい子どもを遊ばせているお母さんたちを見つめながら、自分だってあのように、ブランコに乗る子どもの背中を支えたり、シーソーに乗せたり、砂場遊びを見守ったりしたかったのに、なんて心を乱れさせていたら花びらがはらはらはらはら散っていった。
あの時流産していなければ、今頃私は臨月で、大きなお腹を抱えてあの桜を見ていたのかもしれないな、なんて思ったら急に泣きたくなってきて、実際泣いた。
わぁ〜自分うざいな〜、と思ったけれども止められなかった。

「お母さんにはもうなれないのかもしれない」なんてうっかり弱音を吐くと、「治療やめたらできたってよく聞くよ!」とポジティブな人々は励ましてくれるのだが、うちの場合は身体状況的に顕微受精以外ではありえないので病院通いをやめることは子供を諦めることを意味するんだよーっていうのも面倒なので、「そうだよね!」と返す。

さらにまた、「子供いないんだったら社会的意義のある仕事しなよ!」と意識の高い人々は励ましてくれるのだが、病院通いと仕事の両立は本当に難しいし、まだ子供のことを諦められそうにもないし、何より自分に社会的意義のある仕事なんてできるのか?それはコンビニのレジ打ちとか民間企業の事務職などではないのかもしれず、JAICAとか原発作業員とか介護士とかのことなのか?てなことを言ったら場が白けそうなので、これにもまた「そうだよね!」って返すこの生活にもいいかげん疲れてきたがな。

少し前に報道されていた「保育園落ちた日本死ね!」問題。
このニュースを聞いて「そうだ死ね死ね!」と共感できない自分は現代女性失格かも、と思った。
いつのまにか、育児と仕事を両立させる女性たちとの距離があの世とこの世並みに開いてしまったことに気づく。
出産・育児をこなすだけでも相当にすごいのに、さらにまた復帰すべき仕事が待っているなんて、あまりに彼女たちが優秀すぎて自分から見ればマザーテレサとか福沢諭吉とかぐらい偉大で遠い。
その距離感は長い不妊生活からくる歪みかもしれなくて、初めは自分事として捉えていた女性の仕事と育児の問題がどんどん遠くなっていくことの、社会の辺縁からこぼれていく感じ。

まぁ、自分のせいなんだろうな。
出産する能力と仕事の能力のどっちも足りてなかったっていう。

「保育園落ちることすらできない私死ね」みたいな気分です。

家の中の南極地帯

「お風呂が沸きました」とNORITZ湯沸かし器から知らせがあったので、いそいそと全裸で浴槽に向かった。
こんな寒い日はやっぱ風呂だよね〜などと至福を予感しながら風呂の蓋を開けてみると、しかしそこに風呂は沸いていなかった。
ただ空っぽの渇いた浴槽が、むき出しの肌をさらしているばかりであった。
さっきの「お風呂が沸きました」、あれは・・・嘘?
いいや、自分が浴槽の栓を忘れたのである。
栓なき排水溝からは湯気が立ち上り、本来であれば浴槽を満たすはずの温かい湯が、ただ温められ、無駄に流れていったその過去を告げていた。
寒くてどうにもならないのでとりあえず服を着ることにした。
洗濯機から、さっき脱いだパンツ、トレーナーなどを再び取り出そうとしてみたらば、あんためっちゃつめたいやんけ!
洗濯機の中に昨日から入っていた使用済みタオルの上に置かれたそれら衣服は、じっとりと濡れており、もはや着用を許さなかった。ほんの数分前まで、私を暖かく包んでいたあの衣服たちが。
悔やまれる。時間は戻らない。
至急、あたらしい衣服を調達してこようと思い、ふと立ち止まった。
風呂に入らないままであたらしい服を着たとする。それを風呂上がりにも着たとする。すると、せっかく洗濯したばかりの清潔な服はもはや清潔ではなくなってしまい、同時にせっかく洗った清潔な体も清潔ではなくなってしまう。
凍えるような寒さのなか、私はわずかに立ち上る湯気を心の支えにさまざまな思いを巡らした。
一つの名案が浮かんだ。
今すぐ浴槽の栓をして、浴槽にはいりスイッチをオンにして、湯が溜まるのを待つ。そうすれば、少しずつ溜まる湯と湯気が私をあたため、もはや服を着る必要はなくなりエネルギー、および時間の無駄は最小限に抑えられる。
これしかないだろう。
私は急いで浴槽をまたぎ、同時にスイッチをオンにした。すると温かい湯がただちに勢いよく飛び出しはじめた。
それからふと、なんか、贅沢かな?と思った。
このまま、本来の位置まで湯を溜めたとすれば自分一人のために、1日で2回分もの湯を使ってしまうことになる。 そんな贅沢が、許されるだろうか?
いいや、自分は低所得者である。その自分が、そんなに大量の湯を使うことがゆるされていいのか?
私は湯量パネルを180リットルから100リットルに変更した。 NORITZ湯沸かし器が冷たい声で「お風呂の量が変更されました」と告げた。
果たして、100リットルは思いの外少なく、ようやく温まった浴槽に尻をつけてみると臍の上ほどまでしかなかった。
私はとにかく湯に全身が浸るようにと工夫を凝らし、限界まで体勢を後方に傾けてゆき足を折り曲げて浴槽に寝ているような状態になった。
あ〜なんか、この感じ知ってる。ズンドコドコズンドコドコドコって思い出すのはリンボーダンスのことで、まさか40になろうとしている女が浴槽内でリンボーダンスをすることになるとは なんと因果なことかしらとなお凍える。
私は未だかつてなく平らく薄かった。

屋根があり暖房があり、湯がはれる風呂をもちながら、依然私は凍えている。家の中の風呂場の中で。
文明って、なんだろう?
ぬかりのない注意深さ、あるいは無駄にする勇気。そのどちらかをもたずして享受することはできない豊かさ。
どっちかだけでも手に入れたいなぁ明日こそは。そんな、ことを思う真冬の夜。

世話の焼けるって感じがイイ

駅のホームに一人のランドセルを背負った女の子がいた。

女の子の右肩には黄色い「小学一年生マーク」が付いており、ランドセルはその小さな背中が丸ごと隠れるくらいに大きかった。
女の子は大きすぎる自分のランドセルを背負いながら、なおかつ両腕で大きな荷物を大事そうに抱えながらよっこらよっこら歩いていた。

何かと思えばそれはもう一つのランドセルなのだった。

さて、罰ゲームか何かかしら?などと微笑ましく思っていると、前方を猛ダッシュしていく男の子の姿が見えた。
男の子はひとしきり遠くの方まで走り抜けると、女の子の近くまで戻ってきて思い立ったように腰をふったりジャンプしたり自由奔放に振舞っていた。

多分、もう一つのランドセルの持ち主はあの男の子だ。

女の子があまりにヨレヨレなので気の毒になっていると、女の子が叫んだ。
「ちょっとコウタロウくん!」
見かけはヨレヨレだがその声は力強く、はっきりとした意思を感じさせるものだった。

そうだ、少女よ、コウタロウにランドセルを自分で持たせろ!
私は心のなか、女の子にエールを送った。

しかし、次に女の子はこう叫んだ。

「黄色い線の内側に下がりなよ!」

おいおい!!
コウタロウにランドセルを持たせるために呼びとめたんじゃないのかよ!
いいの?このままヨレヨレになりながら、あなたはどこまでもいくわけ?

一方のコウタロウはといえば、人にランドセルを持たせることも、
黄色い線の内側に下がることもお構いなしといった風情で、駅のホームを縦横無尽に駆け回っている。
私がやきもきしていると、後ろから二人の付き添いと思われるおばあちゃんがやってきて、女の子に話しかけた。

「リカちゃん、コウタロウくんにランドセル自分で持ってもらったら?」

おばあちゃん、ナイス!そうそう、是非ともそうすべきなのよ!
コウタロウは両手を広げて、ひょっとこみたいな顔で黄色い線の上を歩きながら、下品な単語を叫ぶなどして相変わらず絶好調。
その時、リカちゃんがおばあちゃんの言葉には返事をしないまま叫んだ。

「コウタロウくん、そんな言葉、使っちゃいけないんだよ!」

そうじゃなくてさ!あなたはコウタロウに利用されてちゃいけないの!
今すぐそのランドセルをコウタロウにもたせてあなたも自由になって、もし望むのなら下品な言葉を叫んだっていいのよ!
と、ここまで考えて、しかし通り過ぎるときに垣間見えたリカちゃんの満足そうなその表情・・・。
なーんだ、間違っていたのは私の方だったんだと気付いた。
りかちゃんは全然嫌そうではなかった。
むしろ、「まったく、コウタロウったら私がいないとだめなんだから〜」みたいな充実感を醸し出していて、とても満足そうだったのである。
リカちゃんからコウタロウの世話を奪う必要など、どこにもないのかもしれない。
コウタロウに迷惑をかけられ、それを受け入れることによって自尊感情を高めているのかもしれず、だとすればあのランドセルをコウタロウ自身に持たせることは、リカちゃんの中に一つの空洞をもたらすことになるだろう。
お世話好きな私、コウタロウのために頑張る私、すべてを受け入れる私。
そのアイデンティティがリカちゃんをリカちゃんたらしめているのかもしれないのだから。

そういえば、と職場の美しい女性上司のことを思い出した。
机の上にパンダのぬいぐるみを置いていた彼女は、イマイチ座りの悪いそのパンダがころんと寝転ぶたびに、うれしそうに言ったものだ。
「この世話が焼けるって感じが、イイ」と。
彼女は元夫の傍若無人ぶりにもめげず献身し続けたのだが、ついにその努力も限界に達し離婚するに至ったということである。
私はリカちゃんの応援を止め、ホームに滑り込んだ急行電車にのった。
各駅停車を待つらしいコウタロウ、リカちゃん、おばあちゃんはベンチに座って楽しそうにおしゃべりしていた。
ドアがしまり電車が出発する。私は3人の姿を見えなくなるまでずっと見つめていた。 リカちゃんがどうかダメ男以外に自尊心の在り処をみつけられますように。
日本のすべての女の子が、幸せになりますようにと願いながら。

失敗ラジオ

一つ失敗すると、決まって新たな失敗が追い討ちをかけるように私をいたぶるのはなぜなのか?

ダークな気持ちを少しでも癒したいと apple Musicで「失敗」を検索してみたところ 「失敗ラジオ」というのがあった。
選択すると森田童子「僕たちの失敗」が流れ始めた。

♫例えば僕が死んだら~ そっと忘れてほしい~

もはや、死んだ自分なんて他者の中からそっと消えたいという儚い願望。
でも多分、忘れてほしいってわざわざいうくらいだから、 忘れて欲しくはないんだろうねほんとは。
なんてこの曲が主題歌だったドラマ「高校教師」を思い出していた。
森田童子が終わると今度は川嶋あい「僕たちの失敗」。
それからテクノ・エレクトロニカっぽいイントロに 遠くから聞こえるようなボーカロイドの声が重なった。
耳をすますと、「菜の花畑で泣いてくれ」とか言っていて、 これってまたも僕たちの失敗!
もしかして、この失敗プレイリストは全面的に「僕たちの失敗」のみをフィーチャーしたものなのだろうか?
続いてカヒミカリィのようなウィスパリングボイスのフレンチポップバージョン、 こぎれいなクリニックでかかっていそうなオルゴールバージョン・・・
あらゆる「僕たちの失敗」が繰り返された。

この頃にやっと、このプレイリストは全面「僕たちの失敗」なのだろうとわかった。
にもかかわらず人間というのはつい油断をしてしまうもので、 メロコアっぽい若さで爆発しそうなイントロが始まると、 スネイルランプかな?懐かしなぁなんて思ってしまう。
その直後、すごく元気いっぱいの声で「たとえばぼくがしんだら~!」と始まった。
まるで死んだそばから生き返りそうな、それでいて明るすぎて逆に悲しみを誘うような とてもいいアレンジだった。

そんなわけで、様々な「僕たちの失敗」がこの世界にあることを知り、 いかにこの曲が愛されリスペクトされているかを理解した、 失敗続きのある日の夕方。

あらゆる人々による、あらゆる試行錯誤を繰り返しながら 僕らの失敗は続く。

jazzじゃないね?

壇蜜似の美人上司Gさんは過去にマナー講師の経験があり、 お辞儀の角度が何度とか、 笑うときには口角をあげるとか、 「出迎え三歩、見返り七歩」とかのおもてなしについてのあれやこれやを伝授しては 人々を啓蒙してきたという。

事務職に転じた今も、当然のごとく気働きが最高レベルでできて、 外国語が堪能な彼女は上司、 特に顧問や会長などの超エライひとからの評価がとても高い。
そりゃそうだよなぁと思うのは特に飲み会での振る舞いで、 お酌をして回る、食べ物を取り分けるなどは基本中の基本であって、 まず、自分からは絶対に飲まない、食べない。
ただし勧められた場合には大いに飲み、 ときにはイッキを披露することさえもある。
店員が来なければというか店員が付近にいたとしても厨房までオーダーを届けに行く。
声が小さい高齢の役員が何か言いたそうな時には忍者のごとく素早く寄り添って通訳のようなことをする。
翌日、どんなに早朝から仕事であったとしても、 酔った役員が満足するまで二軒目、三軒目、四軒目ととことん付き合い 彼らを家まで送りとどける。
また服装においても大変相手のニーズを熟知していて、 常に絶妙な長さの品の良いタイトスカートとやや透け感のあるタイツを身につけている。
と、このように観察ばかりしている私はどうかといえば、 あ、お酌でもしてみよっかな?と思ったその0.5秒前、 すでにグラスはGさんによってみたされているので 何もできないまま「あの気の利かねぇ女」くらいに思われていることだろう。

彼女のおもてなし心は役員のみならず惜しげも無く平民にも注がれる。
3年前の正月、いきなり住所を教えていないはずのGさんから年賀状が届いた。
もしや人事に提出した履歴書などをわざわざ調べて送ってきたのか?
と正直、私はポストの前で青ざめたが、 彼女なりの気遣いだったのだろうと感謝することにした。

そのほかにもここには書ききれないほどのおもてなしレジェンドを日々積み重ね続けるGさん。
 けれどGさんは「自分はどうでもいいんです、全体が円滑に進むことが大切」などと謙虚に言う。

さて、この度Gさんはおもてなしの心とマナー講師の経歴を生かし、 講演を行うことになったという。
テーマは「人生のタイムマネジメント」。
具体的にどのようなお話をするのかと問うてみれば、

「まず、人生を逆算するんです。最後に死ぬ、というところから考えます」

とGさんは早くも講師のような口ぶりになって言った。
おお!!まるでフィールドが違うと思っていたGさんと私に共通点があったとは!
人はすべて死す。 私たちは最後の日を無限に延長しているだけにすぎないのであって、 明日死んだって、というか2秒後に死んだって 全然おかしくはない世界に住んでいる。
まだ死んでいない、ただそれだけのこと。
私は目を輝かせて次の言葉を待った。
「例えば自分が死ぬとしますよね?」
「はい」
「周りの人は悲しみます」
「はい」
「それから周囲の人は自分をどう思うのか?」
「と、いいますと?」
「お葬式ではどんな会話がなされるのかしら? あの人、あんなすごい講演した!とか、 あんなにすばらしい功績を残した!とか。 そう思われるためには今何をすべきか? 自ずと決まってきますよね」
 私は黙った。
何かが始まりそうな予感はあっという間に散霧して、 元どおりの暗い淵が姿を現し、さらにまた一層深くなったように思われた。
彼女のミニ講演会は続く。
「目標のない人生じゃ成長も感動もない。 まず最終目標を決める。 そこから逆算して人生を埋めていけば、必ず成功します」
「ねぇ、それ、マジで言ってんの!?」 とGさんの肩を揺さぶりたいのを抑えて 「なるほどですね・・・」と答えてから沈黙した。

確かに、ある程度のボジションについている人というのは 人生が右肩あがりになるように隙間を埋めていけるひとなのかもしれず、 この発想は正しいのかもしれない。
けれども死してなお、他者の評価基準を必要とするなんて、ちょっと切なくはないか・・・。
 それはなんと社会性が高く、同時に危ういのだろう。
自分の友人がそんなことを言い出したら、 「この人は自我の危機にある」と考え少々心配になるかもしれない。
タモさんなら「Jazzじゃないね!」とかいいそうだけどね。

Gさんは己の思想を疑わぬ瞳でミニ講演会を続けている。
私は阿呆のように「なるほどですね」と繰り返す。