jazzじゃないね?

壇蜜似の美人上司Gさんは過去にマナー講師の経験があり、 お辞儀の角度が何度とか、 笑うときには口角をあげるとか、 「出迎え三歩、見返り七歩」とかのおもてなしについてのあれやこれやを伝授しては 人々を啓蒙してきたという。

事務職に転じた今も、当然のごとく気働きが最高レベルでできて、 外国語が堪能な彼女は上司、 特に顧問や会長などの超エライひとからの評価がとても高い。
そりゃそうだよなぁと思うのは特に飲み会での振る舞いで、 お酌をして回る、食べ物を取り分けるなどは基本中の基本であって、 まず、自分からは絶対に飲まない、食べない。
ただし勧められた場合には大いに飲み、 ときにはイッキを披露することさえもある。
店員が来なければというか店員が付近にいたとしても厨房までオーダーを届けに行く。
声が小さい高齢の役員が何か言いたそうな時には忍者のごとく素早く寄り添って通訳のようなことをする。
翌日、どんなに早朝から仕事であったとしても、 酔った役員が満足するまで二軒目、三軒目、四軒目ととことん付き合い 彼らを家まで送りとどける。
また服装においても大変相手のニーズを熟知していて、 常に絶妙な長さの品の良いタイトスカートとやや透け感のあるタイツを身につけている。
と、このように観察ばかりしている私はどうかといえば、 あ、お酌でもしてみよっかな?と思ったその0.5秒前、 すでにグラスはGさんによってみたされているので 何もできないまま「あの気の利かねぇ女」くらいに思われていることだろう。

彼女のおもてなし心は役員のみならず惜しげも無く平民にも注がれる。
3年前の正月、いきなり住所を教えていないはずのGさんから年賀状が届いた。
もしや人事に提出した履歴書などをわざわざ調べて送ってきたのか?
と正直、私はポストの前で青ざめたが、 彼女なりの気遣いだったのだろうと感謝することにした。

そのほかにもここには書ききれないほどのおもてなしレジェンドを日々積み重ね続けるGさん。
 けれどGさんは「自分はどうでもいいんです、全体が円滑に進むことが大切」などと謙虚に言う。

さて、この度Gさんはおもてなしの心とマナー講師の経歴を生かし、 講演を行うことになったという。
テーマは「人生のタイムマネジメント」。
具体的にどのようなお話をするのかと問うてみれば、

「まず、人生を逆算するんです。最後に死ぬ、というところから考えます」

とGさんは早くも講師のような口ぶりになって言った。
おお!!まるでフィールドが違うと思っていたGさんと私に共通点があったとは!
人はすべて死す。 私たちは最後の日を無限に延長しているだけにすぎないのであって、 明日死んだって、というか2秒後に死んだって 全然おかしくはない世界に住んでいる。
まだ死んでいない、ただそれだけのこと。
私は目を輝かせて次の言葉を待った。
「例えば自分が死ぬとしますよね?」
「はい」
「周りの人は悲しみます」
「はい」
「それから周囲の人は自分をどう思うのか?」
「と、いいますと?」
「お葬式ではどんな会話がなされるのかしら? あの人、あんなすごい講演した!とか、 あんなにすばらしい功績を残した!とか。 そう思われるためには今何をすべきか? 自ずと決まってきますよね」
 私は黙った。
何かが始まりそうな予感はあっという間に散霧して、 元どおりの暗い淵が姿を現し、さらにまた一層深くなったように思われた。
彼女のミニ講演会は続く。
「目標のない人生じゃ成長も感動もない。 まず最終目標を決める。 そこから逆算して人生を埋めていけば、必ず成功します」
「ねぇ、それ、マジで言ってんの!?」 とGさんの肩を揺さぶりたいのを抑えて 「なるほどですね・・・」と答えてから沈黙した。

確かに、ある程度のボジションについている人というのは 人生が右肩あがりになるように隙間を埋めていけるひとなのかもしれず、 この発想は正しいのかもしれない。
けれども死してなお、他者の評価基準を必要とするなんて、ちょっと切なくはないか・・・。
 それはなんと社会性が高く、同時に危ういのだろう。
自分の友人がそんなことを言い出したら、 「この人は自我の危機にある」と考え少々心配になるかもしれない。
タモさんなら「Jazzじゃないね!」とかいいそうだけどね。

Gさんは己の思想を疑わぬ瞳でミニ講演会を続けている。
私は阿呆のように「なるほどですね」と繰り返す。